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森に囲まれたペンション・ラポールを上方から望む

Rapport Forest Philosophy

ラポール 森の思想

― 森と人から考える、「やりたい」で生きるための環境論 ―

思う。そして、想う。

今を見つめ、
まだここにないものを心に描く。

私たちは、その人の中から
「やりたい」が生まれてくる環境を考えます。

01

森なんて、どうでもよかった。

最初から、森が好きだったわけではありません。

38年前、私がたんばらにペンションを開いた理由は、もっと単純でした。

ここにスキー場ができる。

それが大きな理由です。

自然に特別な興味があったわけでもありません。
まして、森が人に何をもたらすかなど、考えたこともありませんでした。

それが少しずつ変わっていったのは、家族や犬と森を歩くようになってからです。

最初は、ただの散歩でした。

ところが歩いているうちに、この森の深さに気づきました。

登山道からほんの一歩踏み出しただけで、その先には人の気配がほとんどない世界が続いている。

そして森の中にいると、ときどき不思議な感覚になりました。

時間が止まっているように感じるのです。

今が2026年でも、江戸時代でも、もっとずっと昔でも、この森は同じようにここにあったのではないか。

そんな感覚です。

もちろん、森も変化しています。

木は育ち、倒れ、新しい命が生まれます。

それでも、人間の暮らす場所とは、時間の流れ方そのものが違うように感じました。

そして、いつの頃からか、私は逆に考えるようになりました。

森が特殊な場所なのではない。

私たち人間が普段暮らしている場所のほうが、特殊なのではないだろうか。

「ここは違う」と感じた。

その頃、『植物の不思議な力 フィトンチッド』という本を読みました。

森には、人間がまだ十分に知らない働きがあるのかもしれない。

そんなことを考えるようになりました。

子どもたちがまだ小さかった頃、家族で森へ行ったことがあります。

ただの散歩のつもりでした。

でも、森の中に入ると、何かが違いました。

劇的な出来事があったわけではありません。

人生観が変わったわけでもありません。

うまく言葉にはできないけれど、

「ここは、いつもの場所とは違う」

という感覚でした。

少し大げさに言えば、異世界へ入ったような感覚です。

それから私は、何度も森へ行くようになりました。

一人で。

犬と。

息子と。

冒険したくて歩いたこともあります。

ダイエットのために歩いたことだってあります。

そうやって何度も森へ入っているうちに、

「森の中にいる」

という感覚そのものが、少しずつ自分の中に育っていきました。

ただ、その頃の私はまだ、

「森が人を変える」

などとは考えていませんでした。

もっと素朴に、

森へ入ると、自然に何かが変わる。

そう感じていただけです。

では、人はなぜ環境によって変わるのだろう。

私たちは普段、自分の考えや行動は「自分」が決めていると思っています。

もちろん、それは間違いではありません。

でも、人間は周囲から切り離されて生きているわけでもありません。

光があります。

音があります。

匂いがあります。

温度があります。

一緒にいる人がいます。

立っているのか、座っているのか、歩いているのか。

毎日、よく眠れているのか。

お腹が空いているのか。

安心しているのか。

私たちの身体と脳は、そうした周囲の条件を受け取りながら働いています。[注1]

だから、場所が変われば、まったく同じ人でも、感じ方や考え方、行動が少し変わることがあります。

これは「森には不思議な力がある」という話ではありません。

人間は、環境の中で生きている。

まずは、そこから考えてみたいのです。

そして私は、長いあいだ宿を営み、森を歩く中で、一つのことを考えるようになりました。

環境が変わると、人は「しなければならない」より、
「今日はこうしたい」という気持ちを選びやすくなることがある。

もし、そうだとしたら。

人が自分を変えようと一生懸命努力する前に、

人が自然に変わりやすい環境をつくることはできないだろうか。

それが、いま私たちが「ラポールの森の思想」で考えていることです。

整いすぎていない、たんばらのブナ林
ブナの根元と森の小径

02

森を歩くと、いつもの世界が少し違って見える。

森へ行くのに、特別な目的はいりません。

健康のためでなくてもいい。

自分を変えるためでなくてもいい。

人生について考えるためでなくてもいい。

ただ、森を歩いてみる。

それだけでもいい。

でも、せっかく森へ入るのなら、いつもとは少し違う歩き方をしてみると、森の見え方が変わることがあります。

たとえば、大きな樹を見つけたら、背中を預けてみる。

手のひらで触れるのとは、少し違います。

背中全体で樹に触れ、そのまましばらく立っている。

すると、それまで風景の一部だった樹が、少し身近に感じられることがあります。

私自身、そうして樹に背中を預けていると、

自分も、この森の一部なのかもしれない。

そんな感覚になることがあります。

もちろん、樹から何か特別な力が出ている、と言いたいわけではありません。

ただ、見るだけだった樹に身体で触れてみる。

それだけで、自分と森との距離の感じ方が変わることがあるのです。

森の中を横に並んで歩く二人

森の中で、倒れた木に腰掛けることもあります。

目を閉じて、静かに呼吸する。

何かを考えようとしなくていい。

何かを感じなければならないわけでもありません。

しばらくそうしていると、今まで意識していなかった音が聞こえてきます。[注2]

風の音。

葉が揺れる音。

鳥の声。

遠くから聞こえる何かの音。

そして、森の匂い。

空気の冷たさ。

身体に触れる風。

目を開けて歩いていたときには背景になっていたものが、一つひとつ感じられるようになります。

私は、こういう時間を説明するとき、あまり難しい名前を付けたくありません。

瞑想と呼ぶこともできるでしょう。

でも、

「ちょっと目を閉じて、静かに呼吸してみましょう。」

それで十分だと思っています。

大きな木に背中を預けて森を感じる人

目を閉じて、歩いてみる。

すると、感じるものが変わる。

森の近くには、目を閉じて歩く体験ができる安全な場所もあります。

もちろん、登山道ではやりません。

転倒などの危険がない場所を選び、二人一組になります。

一人が目を閉じる。

もう一人が、その人を導く。

声で、

「少し右へ」

「そのまま真っすぐ」

と伝えることもあれば、言葉を使わず、身体を通じて方向を伝えることもあります。

目を閉じた瞬間、世界がなくなるわけではありません。

むしろ不思議なことに、それまであまり意識していなかったものが存在感を持ち始めます。

相手の声。

足の裏の感覚。

空気。

音。

自分の身体。

そして、そばにいる人。

私はこの体験をして、人間は目で見えているものだけを頼りに世界を感じているわけではないことを、改めて感じました。

そして、この体験にはもう一つ、私たちなりの工夫があります。

歩いている間、できるだけ未来の話をします。

過去に何があったか。

今、何に困っているか。

そこからいったん離れてみる。

「できる」「できない」も、いったん横に置く。

そして、

もし、何でもできるとしたら。

そんなところから話を始めます。

倒木に腰掛けて森で静かに過ごす人

同じ方向を見ながら歩く。

森で誰かと話すとき、向かい合って座る必要もありません。

横に並んで歩きます。

ずっと相手の目を見る必要はない。

沈黙しても、目の前には森があります。

話すことがなくなれば、少し歩けばいい。

鳥の声がすれば、そちらを見る。

面白い木があれば、立ち止まる。

つまり、二人が向き合って、

「さあ、あなたのことを話してください」

という関係ではありません。

二人で同じ方向へ歩きながら、同じ景色を見る。

私は、この違いは意外に大きいと思っています。

これまでの研究でも、アイコンタクトには重要な社会的役割がある一方で、状況によっては認知的な負荷にもなり得ること[注4]、また歩行や身体のリズムを共有することが、人と人との関係に影響する可能性が示されています。[注5]

だからといって、

横に並んで歩けば、本音が出る。

とは言えません。

そんな単純なものではないでしょう。

ただ、向かい合って話すことだけが、対話ではありません。

ときには同じ方向を見ている方が、話せることもある。

ラポールでは、そう考えています。

森を見る目が大きく変わった。

私は長い間、森を歩いてきました。

でも、「森は人を変える場所だ」とは全く考えていませんでした。

森に入れば、自然に何かが変わる。

そのくらいの感覚でした。

それが大きく変わったのは、ごく最近のことです。

2026年6月。

ラポールで、森の中を歩きながら行うコーチングリトリートを実施しました。

そこで私は、参加した人たちの様子が、それまでとは違って見える瞬間を何度も経験しました。

楽しそうなのに、落ち着いている。

声に力がある。

時間の感覚まで、いつもとは違うように感じる。

そして、未来について話し始める。

もちろん、これをすべて「森の効果」と考えることはできません。

そこには、コーチングによる対話があります。

一緒に歩いた人たちとの関係があります。

何日間かを共に過ごしたことも影響しているでしょう。

私たちには、まだ分からないことがたくさんあります。

それでも、この体験を通して、私は初めて、

森は、人が変わりやすくなる環境の一つなのかもしれない。

と、はっきり考えるようになりました。

森が人を変えるのではありません。

その人の中にある何かが、いつもとは少し違う動きを始める。

私たちが考えたいのは、むしろその理由です。

そして、その先にはもう一つの問いがあります。

その「変わりやすい時間」に、人はどこを見ればいいのだろう。

私たちは、過去でも、現在でもなく、まだここにない未来だと考えています。

03

まだここにない未来を、想ってみる。

森を歩きながら、私たちは未来の話をします。

ただし、

「今の自分に何ができるだろう」

というところからは、始めません。

今の自分を出発点にすると、どうしても現在の条件がついてきます。

年齢。

仕事。

お金。

家族。

これまでの経験。

得意、不得意。

そして、

「できるだろうか」

「無理なんじゃないか」

という考え。

どれも、現実に生きていくためには大切なことです。

でも、未来を想うときだけは、いったん横に置いてみる。

そして、こんな問いから始めます。

もし、何でもできるとしたら。

どんな未来を実現したいですか?

できるかどうかは、まだ考えません。

どうやって実現するかも、まだ考えません。

まず、その未来を想ってみる。

現在から未来を見るのではなく、未来から現在を見る。

たとえば、

「今の仕事を続けながら、何ができるだろう」

と考える。

これは、現在から未来を見ています。

「この年齢からできることは何だろう」

これも同じです。

今いる場所を基準にして、その延長線上に未来を探しています。

私たちがやってみたいのは、その逆です。

今の条件をいったん外して、

「本当に実現したい未来は何だろう」

と想ってみる。

そして、その未来が見えてきたら、そこから今の自分を見る。

すると、

「今の自分に何ができるか」

ではなく、

「そこへ行くために、今は何をしたいだろう」

という見方ができるようになります。

ここで大切なのは、無理に答えを出さないことです。

一泊二日で人生のゴールが見つかる人ばかりではありません。

むしろ、そんなに簡単ではないと思っています。

それでも、

「自分には、こんな未来があってもいいのかもしれない」

と一瞬でも感じられたら。

そこから、何かが始まることがあります。

「思う」から、「想う」へ。

私たちは、この二つの「おもう」を少し違う意味で使っています。

思う。

今の自分を見つめ、考える。

そして、

想う。

まだここにはないものを、心に描く。

これは、「思」と「想」という漢字には本来そういう意味がある、という話ではありません。

ラポールの森の思想の中で、私たちがこの二つの字に託している意味です。

思う。そして、想う。

今を見つめ、まだここにないものを心に描く。

今までの自分を否定する必要はありません。

今の生活を捨てる必要もありません。

ただ、

「今の自分にできること」だけで、未来の大きさを決めない。

そのための時間を、少し持ってみる。

森で未来を想う。

なぜ、それを森でやるのでしょう。

ここについては、まだ分かっていないことがあります。

森の中で未来を想うことが、室内で未来を考えることより効果的だ、と簡単に断定することはできません。

ただ、私自身は森の中で何度も、普段とは違う考え方になることを経験してきました。

いつもの机がない。

パソコンもない。

仕事の電話もない。

歩けば景色が変わる。[注3]

風が吹く。

鳥が鳴く。

ときには立ち止まる。

大きな樹を見上げる。

そういう環境の中で、

もし、何でもできるとしたら。

という問いを持って歩いてみる。

すると、普段ならすぐに出てくる、

「でもなぁ」

「無理だろう」

「今さら」

という言葉を、ほんの少し脇へ置けることがあります。

森が答えを教えてくれるわけではありません。

コーチが答えを教えるわけでもありません。

答えを出すのは、その人自身です。

私たちができるのは、まだここにない未来を、その人が自由に想える時間と環境をつくること。

そして、その未来へ向かって歩き始めるとき、隣で一緒に歩くことです。

霧の森の中を歩く人

04

一晩、泊めてみる。

森から帰ってきたら、それで終わりではありません。

ラポールに戻る。

お風呂に入る。

夕食を食べる。

みんなで話す。

ときには、もう少し未来のことを考えてみる。

そして、眠る。

翌朝、目を覚ます。

私は、この時間にも意味があるのではないかと思っています。

森で何かを感じた直後に車に乗り、高速道路を走って家へ帰る。

電車に乗り、駅の人混みの中へ戻っていく。

もちろん、日帰りの森にも意味はあります。

でも、森で感じたことをすぐに日常へ持ち帰るのではなく、

そのまま一晩、置いておく。

ラポールという宿だからできることの一つです。

森の夜に明かりが灯るペンション・ラポール

森から帰っても、時間は続いている。

森から帰ったあと、すぐに何かをまとめる必要はありません。

「今日、何を学びましたか」

「何に気づきましたか」

と、答えを求める必要もありません。

お風呂に入って、

夕食を食べて、

くだらない話もして、

笑って、

また未来の話をして。

疲れたら眠る。

そうやって過ごしているうちに、森で感じたことが少しずつ自分の中に馴染んでいく。

私は、そんな時間が大切なのではないかと感じています。

実際、ラポールでは昔から、

「よく眠れました」

「ぐっすり寝ちゃいました」

と言われることがよくあります。

夕食後、

「9時になったらカクテルを飲みに降りてきます!」

と言って部屋へ戻ったお客様が、そのまま眠ってしまうこともあります。

翌朝、

「いやぁ、部屋に戻ったら気持ちよくなって、寝ちゃいました」

と笑いながら降りてくる。

そんなことも、ラポールではあります。

これは、森のプログラムに参加した人だけの話ではありません。

スキーに来た人も。

ラベンダーを見に来た人も。

ただ、のんびりしに来た人も。

たんばらに来た人たちから、

「眠い」「よく眠れる」

という言葉を、私は長いあいだ聞いてきました。

標高や気候など、いろいろな理由があるのだと思います。

何がどこまで影響しているのかは、簡単には分かりません。

でも、ここではよく眠る人が多い。

これは、38年間宿をやってきた私が、ずっと見てきたことの一つです。

ペンション・ラポールの薬石風呂

眠っている間にも、脳は働いている。

眠ることは、ただ一日を終わらせることではありません。

私たちが眠っている間にも、脳ではその日に経験したことに関わるさまざまな処理が行われています。

記憶に関する研究では、睡眠が、その日に得た情報や経験の記憶を安定させたり、整理したりする過程に関わっていることが分かっています。[注6]

だからといって、

「一晩眠れば答えが出る」

という話ではありません。

眠れば悩みが解決するわけでもありません。

ただ、夜ずっと考え続けることだけが、考える方法ではない。

答えが出ないなら、

いったん、その問いと一緒に眠ってみる。

それも一つの方法だと思うのです。

ペンション・ラポールの夕食

問いを、一晩泊める。

私は、このことを、

「問いを一晩泊める」

と呼んでいます。

今日中に答えを出さなくていい。

分からないものは、分からないままでいい。

森を歩きながら生まれた問い。

誰かとの会話で気づいたこと。

まだうまく言葉にできない感覚。

そして、

「もし、何でもできるとしたら。」

という問い。

それらを、無理にまとめない。

一晩、そのままにしておく。

そして眠る。

朝になったら、もう一度見てみる。

朝、目を覚ます。

カーテンを開ける。

窓の外には、昨日と同じ森があります。

昨日の自分と、まったく別の人間になっているわけではありません。

昨日までの問題が消えているわけでもありません。

でも、ときどき、

昨日とは少し違う見え方をすることがあります。

昨夜はどうしても答えが出なかったことを、

「まあ、こうしてみようかな」

と思えることがある。

あるいは、答えはまだ分からないけれど、

「もう少し考えてみよう」

と思えることもある。

それで十分なのかもしれません。

森だけでは、終わらせない。

ラポールで私たちがつくりたいのは、

「森へ行って、何かすごい体験をして帰る」

という時間だけではありません。

森を歩く。

帰ってくる。

お風呂に入る。

食べる。

話す。

眠る。

そして、朝を迎える。

その全部がつながっています。

森だけが特別なのではありません。

食事だけでもない。

睡眠だけでもない。

コーチングだけでもない。

人を取り巻く環境全体を考える。

それが、ラポールの森の思想です。

そして朝になったら、昨日、森で想った未来をもう一度見てみる。

そのとき、何が見えるのか。

次に考えたいのは、「朝」という環境です。

05

朝になったら、未来をもう一度想ってみる。

朝が来ます。

昨日、森を歩いたときに考えたこと。

夕食を食べながら話したこと。

まだ答えの出ていない問い。

それらを一晩そのままにして、眠ったあとの朝です。

すぐに答えを出す必要はありません。

ただ、昨日とは少し違う状態で、もう一度その未来を想ってみる。

私は、この朝の時間を大切にしたいと思っています。

朝は、一日の始まり、と言うだけではない。

朝は、毎日やってきます。

何も特別なことではありません。

それでも、旅先で迎える朝や、いつもと違う場所で迎える朝には、普段の朝とは少し違う感じがすることがよくあります。

図書館へ行った朝。

いつもより早く家を出て、公園を歩いた朝。

元旦の朝

何かを始めようと決めて、初めて行動した朝。

昨日までと同じ自分なのに、

少しだけ違う一日が始まったように感じる朝があります。

ラポールで迎える朝も、そんな時間になればいいと思っています。

ここでは、みんなよく眠る。

これは、科学の話ではありません。

38年間、宿をやってきた私が見てきたことです。

ラポールに泊まった人は、よく眠ります。

友人が泊まりに来ても、

「眠いなあ」

と言う。

お客様からも、

「よく眠れました」

と言われます。

ラポールには、

「早朝出発? それとものんびり朝寝坊?」

というような宿泊プランがあります。

早く起きて、朝からたんばらを楽しむのもいい。

ゆっくり眠るのもいい。

そんなつもりでつくったプランです。

ところが実際には、ほとんどの人が朝寝坊でした。

なんだ、みんな寝るんだな。

そう思ったことを覚えています。

もちろん、これだけで「たんばらではよく眠れる」と科学的に言えるわけではありません。

標高なのか。

気温なのか。

静けさなのか。

一日よく動いたからなのか。

それとも、いくつもの条件が重なっているのか。

私には分かりません。

ただ、

ここへ来ると、みんなよく眠る。

これは、ずっと感じてきたことです。

朝食の時間になる。

朝になると、食堂に人が降りてきます。

よく眠った人たちが、朝食を食べる。

コーヒーを淹れる。

なくなる。

また淹れる。

それも、なくなる。

ラポールでは、朝になるとそんなことを何度も繰り返します。

挽きたての豆で、そのつど淹れるコーヒーです。

おいしいから何杯も飲んでくれるのだと思います。

でも私は、コーヒーそのものだけではなく、

朝食の席で、もう急がなくていい時間

も好きです。

今日これから何をするかしあう家族がいる。

外を眺めている人がいる。

もう一杯コーヒーを飲む人がいる。

何も特別なことは起きません。

それでいい。

森で何かを感じたからといって、翌朝から人生が変わっていなければならないわけではありません。

朝に、問いを返してみる。

もし昨日、

「もし、何でもできるとしたら。

どんな未来を実現したいですか?」

という問いを持って森を歩いたのなら。

朝になったら、その問いをもう一度、自分に返してみます。

答えが変わっているかもしれません。

変わっていないかもしれません。

まだ何も分からないかもしれません。

それでもいい。

一晩眠ったあとに、

「私は、本当はどうしたいんだろう。」

と、もう一度考えてみる。

昨日より答えに近づくこともあれば、逆に分からなくなることだってあるでしょう。

大切なのは、正解を出すことではありません。

その問いを、自分のものとして持って帰ることです。

日常へ帰る前に。

やがて、チェックアウトの時間になります。

荷物を持って玄関へ来る。

靴を履く。

そして、

「のんびりできました」

と言ってくださる人がいます。

笑顔で、穏やかな表情をしています。

楽しそうに車へ向かう人たちを見送りながら、

寛いでいただけたのかな。

と思います。

そして、何度もそう言われているうちに、

この宿の良さは、そこなのかもしれない。

と思うようになりました。

ラポールだけではありません。

たんばらという場所そのものにも、そういうところがあるのかもしれません。

スキーに来た人が、

「今日はのんびりして、昼前くらいに出かけます」

と言って、もう一度部屋へ戻る。

スキーやスノーボードが上手くなりたくて来た昔のアルバイトの子たちが、いつの間にか滑りに行く回数を減らして、ラポールでバカ話にに興じるようになる。

そんな人たちを、私は長い間見てきました。

「せっかく来たのだから、もっと何かしなければ」

ではなく、

「今日は、こうしたい。」

を選ぶ。

それも、この場所で起きていることの一つなのかもしれません。

未来を持って、日常へ帰る。

ラポールにずっといるわけにはいきません。

やがて車に乗る。

電車に乗る。

仕事へ戻る。

家族のいる生活へ戻る。

日常が始まります。

だから、ラポールで過ごした数日だけ気持ちよくなればいい、とは考えていません。

本当は、心から実現したい未来を見つけて、それを持って帰ってほしい。

ただ、一泊二日で簡単に見つかるとは思っていません。

だから、まだ見つからなければ、問いを持って帰ってほしい。

まだ答えのない未来を、心のどこかに置いて帰る。

そして日常の中で、ときどきまた想ってみる。

近所の公園を歩きながらでもいい。

少し立ち止まって、深呼吸するだけでもいい。

その未来は、ラポールのものではありません。

コーチのものでもありません。

その人自身の未来です。

だから、その先を決めるのも、その未来へ歩いていくのも、その人自身です。

私たちにできることは、その少し手前まで。

そして、必要なら、その先も隣で歩くこと。

次の最後のブロックでは、ここをきちんと書きたいと思います。

変わるのは、その人自身です。

窓の向こうに広がるブナの森
朝の食堂に用意された朝食

06

変わるのは、その人自身。

ここまで、森について書いてきました。

環境について。

歩くことについて。

未来を想うことについて。

眠ることについて。

そして、朝について。

でも、一つだけ、誤解してほしくないことがあります。

ラポールへ来れば、人生が変わるわけではありません。

森へ入れば、悩みが解決するわけでもありません。

私たちが、その人の人生の答えをお教えできるわけでもありません。

変わるのは、その人自身です。

森が人を変えるのではない。

私は2026年6月の体験から、

「森は、人が変わりやすくなる環境の一つなのかもしれない」

と考えるようになりました。

でも、

「森に入れば、人は必ず良い方向へ変わる」

とは考えていません。

環境が変われば、人の感じ方や考え方も変わることがあります。

けれど、その変化がどこへ向かうかまで、森が決めてくれるわけではありません。

だから私たちは、森の中で答えを探すのではなく、

まだここにない未来を想います。

できるか、できないかを考える前に、

もし、何でもできるとしたら。

どんな未来を実現したいですか?

と問いかけます。

その答えを決めるのは、私たちではありません。

本人です。

私たちは、答えを教えるわけではない。

誰かから、

「あなたは、こうした方がいい」

と言われる。

その通りにやってみる。

うまくいけばいい。

でも、うまくいかなかったら、

「言われた通りにしたのに」

となってしまうかもしれません。

私たちは、できるだけ、

「こうしたほうがいいですよ」

と言わないようにしています。

その人の人生を生きるのは、その人。

私たちにできるのは、問いかけること。

一緒に考えること。

ときには立ち止まること。

そして、その人が自分の未来を見つけるまで、隣を歩くことです。

一泊二日で、人生の答えが出なくてもいい。

本当に実現したい未来を見つける。

言葉にすると簡単ですが、実際には簡単なことではありません。

一泊二日で見つかる人もいるかもしれません。

見つからない人もいる。

あと少しのところまで行って、どうしても越えられないものに出会うこともあるでしょう。

それでいいと思っています。

人には、それぞれ時間があります。

一日で越えられないものを、無理に越えさせる必要はありません。

もし、

「今のままでいい」

と心から思うのなら、それもその人が選んだ答えです。

私たちが決めることではありません。

でも、

「本当は、もっと違う未来があるのかもしれない」

と感じたのなら。

その気持ちは、大切にしてほしいと思います。

人を変えるのではなく、環境をつくる。

森があります。

歩く時間があります。

一緒に歩く人がいます。

お風呂があります。

食事があります。

話す時間があります。

眠る場所があります。

そして、朝があります。

一つひとつは、特別なものではありません。

でも、それらを一つの時間としてつないでいく。

その中で、

少し安心する。

少しゆっくりする。

いつもとは違うものを見る。

未来について話してみる。

よく食べる。

よく眠る。

そして翌朝、もう一度未来を想ってみる。

私たちがつくりたいのは、そんな環境です。

環境が変わると、人は「しなければならない」より、

「今日はこうしたい」という気持ちを選びやすくなることがある。

だったら、

「変わらなければ」

と自分を追い立てるより、

自然に変わりやすい環境をつくる。

そんな方法があってもいいのではないでしょうか。

私たちも、森も、伴走者。

ブラインドウォークでは、目を閉じた人の代わりに歩くことはできません。

導く人は、

相手が何を怖いと感じているのかを考え、

相手の様子を見ながら、

その人が一歩を踏み出せるように支えます。

でも、最後に足を前へ出すのは本人です。

私は、私たちがやろうとしていることも、それに似ていると思っています。

森も、私たちも、その人の人生を代わりに歩くことはできない。

未来を決めることもできない。

その人が歩いていくための環境をつくり、隣を歩く。

私たちにできるのは、そこまでです。

そして、森から日常へ。

ラポールを出れば、また日常が始まります。

仕事もある。

家族もいる。

やらなければならないことも、たくさんある。

森で過ごした時間が、遠い出来事のように感じる日も来るでしょう。

それでも、ときどき思い出してほしいのです。

森で大きな樹を見上げたこと。

目を閉じて歩いたこと。

誰かと横に並んで話したこと。

よく食べて、よく眠ったこと。

朝、もう一度未来を想ってみたこと。

そして、

もし、何でもできるとしたら。

という問い。

答えは、ラポールにはありません。

森にもありません。

その人の中にあります。

だから私たちは、答えを渡すのではなく、その人が自分の答えを見つけられる環境をつくりたい。

思う。そして、想う。

今を見つめる。

そして、まだここにない未来を心に描く。

できるか、できないかは、そのあとでいい。

まず、

どんな未来を実現したいのか。

そこから考えてみる。

森を歩いてもいい。

近所の公園でもいい。

少し立ち止まって、深呼吸するだけでもいい。

そして、ときどき、

まだここにない未来を想ってみる。

それがいつか、

「しなければならない」ではなく、

「やりたい」で生きること

につながっていけばいい。

それが、いま私たちが考えている、

ラポールの森の思想です。

森の道を歩いていく人

NEXT

この森から、次の時間へ。

この森で、一晩過ごしてみる。

森のプログラムに参加しなくてもかまいません。
食事をして、お風呂に入り、よく眠る。
まずは普通にラポールへ泊まりに来てください。

この森で、未来を想ってみる。

森を歩く。
話す。
まだここにない未来を想う。
そして宿泊なら、その問いを一晩泊めて、朝にもう一度考えてみる。

「ラポールの森の思想」から生まれた、実際の森のプログラムです。

もう少し、森と人について考えてみる。

なぜ森では考え方が変わることがあるのか。
なぜ歩くと考えがまとまるのか。
なぜ横に並ぶと話しやすいのか。
なぜ眠ったあとに見え方が変わることがあるのか。

「ラポールの森の思想」の研究を読む研究記事は公開準備中です

NOTES

科学的根拠について

このページでは、研究で確認されていること、ラポールで長年観察してきたこと、白井自身の体験、ラポール独自の考え方を区別して記しています。研究結果は、ラポール固有の効果や人生の変化を保証するものではありません。

注1|自然環境と注意

自然の中を歩く、または自然画像を見る条件で、都市条件より注意課題成績が改善した実験です。森が必ず注意を回復させるという意味ではありません。

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注2|自然音とストレスからの回復

心理的ストレス後、自然音条件で交感神経活動からの回復が速かった実験です。ラポール固有の効果を示す研究ではありません。

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注3|歩行と創造的思考

座位より歩行中・歩行直後に発散的思考が高まった研究です。すべての思考能力が向上するという意味ではありません。

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注4|視線を外すことと思考

難しい問いほど視線回避が増え、思考時の認知負荷管理に関係する研究です。横並び歩行を直接比較した研究ではありません。

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